ボクサー時代に身につけた様々な「クセ」が農業に生きている

蒼空(そら)農園

就農して3年ほどの「蒼空(そら)農園」の宮垣仁(じん)さんは、大学在学中にボクサーから農家へ転身しました。まったくの未経験からはじめ、卒業後は本格的に「仕事」として農業に従事。周りの先輩農家さんたちに教えてもらいながら、自分スタイルの農業を模索中です。異業種からの転身ですが、意外と共通点のあるボクシングと農業。経緯のみならず、その考え方にも注目です。

突然やってきた終わりの日と、始まりの第六感

宮垣さんは、5歳上の兄の影響で小学校5年生からボクシングをはじめました。高校は丹波を離れ、ボクシングの強豪校へ進学。大学も県外に出てボクシング部に在籍。兄がプロボクサーになったこともあり、卒業後は自身もその道しか考えていなかった大学2年生の頃、突如としてドクターストップを宣告されました。プロはおろか、ボクシングを続けることさえできなくなったのです。

コロナ禍だったこともあり、地元に戻って大学のオンライン授業を受けながら、将来に悩む日々が続きました。
「ずっとボクシングしかしてこなかったんで…。今さら、スーツ着て会社員やって…というイメージが全然浮かばなくて…」と、宮垣さん。そんなある日、母親が丹波栗の話をしているのを耳にしました。なぜかその話が頭に残り、いろいろと調べていると、とある新聞記事が目に入ります。「丹波栗振興会の会長さん(当時)の記事でした。小さく電話番号が載っていたので、かけてみたんです。そのときは、特に丹波栗のビジネスをしたいとか、育てたいとか、明確な何かがあったわけじゃなく、ただ“話を聞きたいので、今から行っていいですか”と」。すさまじい直感と行動力です。

突然の訪問を快く受けてくれた会長(当時)は、農園に連れていってくれ、3時間も丹波栗についてレクチャーしてくれたそう。さらに、その数日後に開かれた総会にも呼んでもらい、様々な人を紹介してくれました。「農業を一切知らない若造に、みなさん本当に親切にしてくださって。そのおかげで今があります」と、感謝の気持ちを口にします。

新規就農者を快く支えてくれる人々との出会い

その後、ご縁があった春日町で栗を栽培している農家さんのもとで、修行を兼ねたお手伝いをすることに。「その農園を引き継ぐ予定だったんですが、いろいろと事情があって難しくなってしまいました。でも、今も農園の手伝いや農業の相談に行ったり、お世話になっています」。

この「丹波栗」との出会いより少し前、宮垣家が所有する大名草(おなざ)の荒れ地になっていた小さな農地をお母さんと耕すことになりました。特に何を育てようとかではなく、体力トレーニングも兼ねて、ただクワで耕していました。そこに、近所で農園を営む、宮垣さんより3歳年上の若い農家さんが「せっかく耕したのだから、何か育ててみたら?」と、声を掛けてくれたのです。これをきっかけに、パプリカやきゅうりなどを植えることにしました。
「もしかしたら、これが最初の農業体験、最初の師匠かもしれません」。年齢が近いこともあって、今でも困ったことや悩みごとがあると、相談するほど仲が良くなったそうです。

こうして、宮垣さんの心は自然と、農業を職業とする方に向いていきました。最初はご縁が繋いでくれたいくつかの農場で手伝いをしていましたが、やがて自分名義の農場を借りることに。「ご近所の方が貸してくださいました。出荷先も、近くの農家さんが紹介してくださった小売店、あとは直売所に。ボクシング時代の先輩が神戸で魚屋をやっていて、その紹介で飲食店にも卸しています。農業をはじめて、あちこちにご縁が増え、みなさんに助けてもらってばかりなんです」と、ここでも感謝を述べる宮垣さん。

農業を事業として成立させることを、まずは目標に

現在は、甘長とうがらしやパプリカ、黒枝豆、さつまいもなどを育てています。どの野菜を主軸にするのか、どんな野菜を育てていくのかは、「今後の出来次第かなぁ。栽培方法もそうですが、今は先輩方のやり方をいろいろと勉強して、あれこれ試していっている段階です。“こだわり”を持つなんて、まだまだ早すぎます。まずは、基本的なことができるようになることが先なんです」と、宮垣さん。

それにしても、丹波栗振興会の会長(当時)に電話するという行動、それがなければ、今に至っていないと思いますが、何がそうさせたのでしょうか?
「いやぁ、何でしょうね。クセ、ですかね。ボクシング一色の高校時代、“今”の瞬間を逃すな、と叩き込まれていたせいかもしれません。なにせ強豪校で、毎週のように全国に遠征や合宿に行ってました。そこには、日本一のタイトルを持っていたり、すごく強い選手がたくさんいて。数日という短期間しか一緒に練習できないんです。なので、聞きたいことはその時に聞くしかない。強くなるためには、チャンスを掴めるかどうか。行動するかしないかで、その後に大きな差が出る。だから、聞きたいことは“すぐ聞け”と言われていました」と、染みついた“クセ”のおかげで、農家の道が開いたと自己分析します。

さらには、先輩の農業を真似ることからはじめているのも、ボクシングそのままだと言います。「真似ることが一番の近道なんです。ボクシングも、憧れている強い選手のフォームや戦い方を真似る。それを重ねて、練習して練習して、ある程度自分の中に落とし込めるようになっていってはじめて、“自己流(自分スタイル)”が生まれる。農業も同じなのかなと考えています」と、共通点を見出しています。

農業の繁忙期は、出荷と収穫の繰り返しで、「ずっと終わらない」感覚になったり、急な悪天候で対応にあたふたしたり、「しんどいと思うことはもちろんありますが、嫌だとか辞めたいと思ったことは一度もなくて。農業をしていると、気持ちがラクというか…。ボクシングは自分と向き合って練習を重ねる個人競技。農業も似ているのかな。自分の目指すところに向かって、もくもくと、どんどん進んでいくというのが、性に合っているのかもしれないです」と、笑顔で話します。

師匠や先輩、ご近所、取引先、そして家族…。「すべての方のおかげで、なんとかここまでやってこられました。みんなが助けてくれて、野菜たちががんばって元気に育ってくれて、そのおかげです。今年結婚したばかりなので、大黒柱として成立するくらいの規模をまずは目指して頑張ります」と、控えめに、それでいて力強く、話してくれました。

野菜が好きではなかった宮垣少年が、大学時代に荒れた食生活を正そうと始めた自炊で料理に目覚め、自分の感覚とご縁が引き寄せた農業を始めてから「野菜の美味しさを知った」という今、「甘長とうがらしは、刻んで味噌やかつおぶしと炊くとごはんのおともに最高ですよ」と、家では料理も担当するほどの腕前に。料理もできる元ボクサー農家。今後の展開がとても楽しみです!

 

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